読書の意味を考えてみる
バカだからアホになる時代
もっと言えば、バカはテレビとネット動画ばかりを見ているからアホになる。
読書人口が減っている昨今
読むと見るの違を考えて分けて捉えることが、
今後の社会においてとても重要になってくる話
見てるだけじゃ、アホになる
ユーチューブ開いたら、面白そうなコンテンツがいっぱいある。
それを一個でも開こうものなら、次から次に好みであろうオススメが出てきてエンドレス・・・
見るのに忙しいという変な状態になるときがある。
今は動画コンテンツも供給過多のせいで、「暴露系」というジャンルも出てきた。
マジックのネタあかしなどだ
今まで見せていなかったモノまで見せてしまう、なんでもありな世界
とはいうものの、画面の向こうの世界と思っていたモノを知る好奇心掻き立てられて、
ついつい見てしまうものなのだ。
それで、一つわかったような気になる。
これが良くない。もうアホに向かって1歩進んだことになる。
見ると読むの違い
動画を見る”というのは散歩をするようなもので、
”読書をする”というのは筋トレだ。
みたいなことを、岡田としおさんが言っていたけれど、
よくわかる。
アホに向かっていくバカは、散歩で痩せようとしているワケだ。
散歩には散歩の良さがあるのだけれども、これで痩せることは到底できない。
それでも痩せてる気がするだけで、同じことを繰り返すことになる。
つまり、
”一つわかったような気になる”と思うのはただの勘違いに他ならない。
だけれども、それが習慣化すると当初の目的すらなくなってしまう。
思考停止状態そのもの
一方、読むという行為は筋力トレーニングのようなもの
自ら重い重量を持って、筋肉を酷使していく。
痩せる目的があるから、それに見あったトレーニングを見つけて行っていく。
つまり読書は、
わかることを目的として自らチョイスしているので、常に考えながら行うもの。
バカに必要な認識
(分別のつかない)バカだから、(思考停止の)アホになる
それをネット社会が加速させている。
快適さに埋もれないために、何が目的なのかと自分がやっていることを明確にしておくことがとても重要
動画コンテンツ=暇つぶし
これを前提に進めていかないと、気づかないうちにアホになってしまうのだ。
幸せなアホになれるのなら、それはそれで良いんだろうと思うけれど、
そうならないから気づかなくてはいけない。
僕が言うアホというのは思考が停止してしまった状態で、
これが習慣化すると、とにかく主体的な行動が取れなくなってしまう。
読書の意味
読書人口の低下と
合理主義加速の社会における、わかりやすいことをよりわかりやすく伝える感じ相まって、
文脈から捉えるイマジネーションという力が、なくなりつつあるように見える。
田舎にいるとそのへんが顕著で、
僕より年下であろう親のアホな様とか、話をしても逆禅問答みたいな感じとか、
疲弊することが多い。
本を読むに限らず、ネット上にある情報を自ら取り込んで考えることが大切
ニュースなんぞのペラペラの情報でわかった様な気になるというのも害で、
それもアホと大差ない。
繰り返しになるけども、
動画=暇つぶし
気晴らしに散歩するようなもので、それ以上はそこにはない。
気になったことに関しては、意識的に情報を取りに行くこと
その積み重ねに己の価値があるのだから
以上、SHOCKMANレポート