アートの持つアソビを地方に広げるために

thinking

アートの持つアソビというのが、とても重要なんじゃないかと思う。

富裕層と貧困の二極化が進めば、なお必要なファクターとなってくるだろう。

そういう点では、アートの根っこの思考が大事だなぁと思うわけです。

富裕と貧困の交差点にあるアートの価値

アートの題材にはしばしば、労働者が用いられる。

骨太パトロンがいなくてはビンボーまっしぐらな当時

その中で見た日常の一片に、表現したいという衝動にまで昇華したモノとは一体なんだったんだろうか。

そういうことが、富裕層には到底理解できるものではなかったと思うのだが、

それでもアートにナニカを感じたワケだ。

そもそもアートというものは、「美」を追求していくものだ。

僕の感覚だけれども、

いつの時代も富裕層の求める美と貧乏層(アーティスト)の求める美が、交わったことはないんじゃないかと思うのだ。

それでもこのアートという場にあれば、共通認識っぽい感じになる。

このアソビもしくは余白の部分が、全体としてはアートの実体よりも価値がありそうな気がする。

ヒエラルキーというは、目に見えるカタチか目に見えないカタチになるかの違いしかない。

であれば、このアソビを広げていくことが唯一の希望なんじゃないのかと思ったりする。

その中での振れ幅に、可能性を感じるところだ。

アートの語源から考える

アートの語源は、ラテン語でアルス「技巧」だったことに立ち戻る。

かつては複製技術も確立されていないので、そこにしかないテクニックがあったワケだ。

ここにもっと直面することが大事で、NFTが持つアート性ばかりに目を取られちゃアソビは生まれない。

もっとアナロジックなモノ、ここにも注目しようじゃないか。

そういう点で言うと、日本のモノづくり文化、アニメや漫画などなど、秀でているところは多い。

アナロジックなアソビを広げるために

アートの持つアソビの融合について

僕の住んでいるお隣、京都北部の京丹後では、定期的にアート展「大京都」が開催されている。

毎回足を運んで見にいくようにしているが、正直まぁまぁ微妙。(個人の意見です)

というのも、そこにある丹後ちりめん文化のアート性の深さが尋常じゃないから霞んでしまうということです。

せっかく地方でやるのであれば、もっと効果的な表現方法を検討すべきで、

それが僕らの産業を活性化するターニングポイントになる可能性もあると考えている。

問題は、

アートとモノづくり産業を区別しすぎて考えている点

作品の中にも、一部コラボしたようなものもあるのだが、いまいちその面白さが引き出されていない。

補助金を使って地方にアーティストが進出している昨今、

日本文化に即したモノづくりというのがあるわけなので、そことどう融合していくか?

僕もチャンスがあれば京都府に打診していく所存だけれども、

そもそもモノづくりが合理主義の分断によって、危うくなっていることはまた次回とする。

以上、SHOCKMAN

アートについて、別の記事もぜひ読んでみてください。

職人目線で考えるアートの精神的価値についてです。

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