工藝を探求する僕は、反工藝という哲学に出会った。
柳宗悦が定義した工藝は、実用の追求にこそあった。用の美である。
実用を離れるならば、それは美術であるという。
そこには無心(没入)から意識(個性)への推移があり、純工藝から工藝美術への転落があると。
このことについて、僕はさらに一歩踏み込んで考えてきた。
端的に言えば、職人性(工藝)と作家性(美術)の両立の問題である。
柳はこれは相反するものだと言っているが、近代化の進んだ現代においては、合理性の名の下よりハッキリと区分されるものである。
しかしながら、突き詰めていけば相関関係にあるのではないか。
工藝を極めていく内には美術は宿るし、美術を極めていく内には工藝が宿っている。
究極、一つ上の概念「芸術」へと昇華する。
その極めていく過程において、反工藝という姿勢は現れる。
既存の伝統技術やシステムを疑う先にしか、新しいもの(美)は発現しない。
伝統はマクロとして見れば脈々と繋がっているものであるが、ミクロでは反撥の連なりであり、差異の反復である。
この認識が非常に重要であり、工藝の実践者として戦うことの意義がここにあるのだ。
ただ既存を継承をすることは、伝統という繋がりの劣化、ひいては分断に他ならない。
反工藝哲学|textileの根源的美を求めて
僕は工藝における染織(textile)を生業としている。
染織は工藝の中でも突出して複雑かつ多様なカテゴリーである。歴史も古い。
つまり、生半可では反撥することさえできない強固な繋がりがあるということだ。
そうであるから、
突き詰めた仕事をしている超絶職人のプロトタイプには、芸術が宿っている、と僕は感じてきた。
しかし、textileは副次的素材であるという一般認識から、生産ラインに乗せれるかどうかが問題となり、
物性面やコスト面、後加工などの条件が合致するものだけが市場に受け入れられるのが現状である。
そうなると、プロトタイプのような未完成品と認識されるものは弾かれる。
これはtextileの持つ根源的美の放棄に他ならないのではないか。
今までにないものを創り上げる、日々の仕事の反撥から生じるこの精神の具現化こそ注目しなければならない。
textileの持つ根本的美は、その構造にこそある。
素材の選定、タテ糸とヨコ糸の掛け合わせ方、組織の組み方、その数は無限に近い。
それ故に、職人性の追求は不可避である。その上に、美を最大限引き立たせるための作家性(デザイン)が位置付けられる。
作家性が職人性を引き上げるような構図になっているのが市場に流通するtextileの大半であるが、
これは既存の表層部を変化させているに過ぎず、本質を求めれば全く逆なのである。
つまるところ、作家性だけあっても職人性だけあってもtextileの美を究極的に引き出すことは叶わない。
相反するものと思われるこの2つを同時に宿すことが必要なのである。
textileにおける芸術性は、近代合理主義による分業化と共に分断されたと僕は捉えている。
一つの大きな繋がりの内に還元するためには、連動性を求めると共にそれに反撥するこの矛盾を自らに抱え込み探求していく他ない。
そのような考えから、僕の制作に関しては一切の分業を取らず、ほぼ全ての作業をひとりで行うに至った。
既存にない表現を目指せば技法の開発から行なっていくことになるわけだが、そのためには、
作業と作業の間こそ注意深く観察していかなければならない。
つまり、既存の延長線上にしか工藝は成り立たないという前提をも疑っていく必要があるということである。
このような姿勢は、大量生産体制を前提とするtextileの既存システムとは大きく異なる。
しかし持続可能性という観点からもスケールさせることに利点は無くなってくるだろうし、
また、日本の縮みの文化から考えても、よりミクロな世界へ向かって表現を鍛錬していく方が面白いものができるだろうと僕は考えている。
反工藝的姿勢は、素材という記号として分断されてしまっているtextileの美を捉え直す試みであり、
哲学的思考を通して職人性と作家性の相関関係を完成させる実践に他ならない。