色を引いて観る世界

thinking

色と意識

色は、意識に先んじて僕らを支配しています。

僕が無条件に白色のモノに惹かれているように、

僕たちの行動は色によって、導かれているようにさえ思えたりします。

網膜的な情報に無関心であることを言ったのは、現代アートを位置づけたデゥシャンでした。

様々な情報にアクセスできる昨今、意識的にも無意識的にも無作為に取り込んでいることを認識することがまず大事であると考えます。

網膜的な情報は眼球に幾重にも貼り付き、透明度を下げていく厄介なものです。

その最たるものが、色です。

引くことの精神

中国から伝わった水墨画が日本に伝わったのは鎌倉時代、

水墨画は、線・濃淡・色彩で表現される絵画なるものから、

最も顕著な要素である色彩を引いていくことに特殊性があります。

それ故に、線・濃淡に対して極めて厳しい態度をとったことが、精神の世界にまで昇華していきました。

この背景には、東洋哲学や禅などがありますがここでは割愛します。

水墨画における大事な要素の一つは、”滲み”です。

この滲みが、網膜的情報を超えてより深き精神の領域へのアクセスを可能にした。

つまりそれは自然それ自身へ投入することで、精神の動きをも体感するに至ったように僕は思うのです。

滲みについて

偶然性を遊ぶ

滲みというものはある程度までは意図できるけれども、基本的に偶然に頼っています。

日本文化では、長らくこの偶然性を遊んできました。

日本で発展してきた水墨画の滲みは、中国のものに比べてより顕著に現れています。

これは水の豊かさ、湿度が影響しているものと思われます。

日本にいると盲点になりがちですが、世界に類を見ない”水大国”であることが、様々な文化を発展させてきました。

例えばテキスタイルの世界には、絞り染めという技法があります。

布の一部を糸で縛るなどすることで、染料が染み込まないようにして模様を作り出す技法です。

浸染をすることで、そこには滲みが現れます。

そのルーツは古く、奈良時代には「三纈」(さんけち)と呼ばれる「纐纈」(こうけち)、「夾纈」(きょうけち)、「臈纈」(ろうけち)などの技法がすでに確立されていました。

(現在の絞り染めは、纐纈にあたります。)

世界的に見てここまで多様に展開していくのは、やはり日本という土地の恩恵に他なりません。

技術の上に滲みという偶然性を纏うこと、

言い換えればそれは、自然と一体となるための間です。

そこに日本人の感性が佇んでいるように僕には思えます。

偶然性を遊ぶこと、その遊びの中にはいろんな間が内包されているのです。

染め・織りを一体とする

絞り染めなどの技法は、端的に言えば布に色をつけてその差を表現するものです。

僕はテキスタイルの世界に、水墨画が試みたような色を抜いた先、つまり、精神世界を展開したい想いがありました。

見方を変えれば、テキスタイルは色に依存しているとも言えます。

前提として、「先染め」と「後染め」に分けることを出発点としているからです。

「先染め」とは染めた糸を織り、柄を表現するモノを指します。

「後染め」は、染めていない生(キ)の状態の糸を織り上げた後に染めるモノを指します。

僕の制作している「真鍮×正絹」のリボンテキスタイルは、上記に該当していません。

織り上げたモノから滲み出ることを含め表現としています。

つまり、時間軸を除いて考えれば、染めと織りが一体として成り立っているのです。

外から色を持ってこない新しい技法は、テキスタイルの出発点をズラすことを意味します。

そこには今までにない世界が、布上に投影されるだろうと思われるのであります。

観ることの本質

「何かを観る」というのは、単に観ることを意味しているのではなく、

「自分で考える」ための補足的な行為に他なりません。

大事なのは対象を深く観ることに努めることです。即ち、自分ひとりで考え抜くことです。

しかしながら、あらゆる角度から情報は入ってきます。それは否定するものではなくて受け入れる必要があります。

その上で、色を引いていく。

その真意は対象の奥にある精神と自分が繋がること、はたまた差分を体感することにあります。

大事なのは、”繋がり”を発見することだと思うのです。

昨今の情報の多くは、例えばハッシュタグなどのように細切れになっています。

これは伝達のコスパを追求していければ至極当然なことに思えますが、ここに考える余白などありません。

文間だとか、本の物理的なスペースだとか、受動的ではないからこそ見えてくるものがあるのです。

「自分で考える」ことは非合理的な作業であり、コスパとは真逆な行為です。

技術がハイスピードでアップデートされる現在、時間効率を追求していくことももちろん大事です。

しかしながら、そこで生まれた余白を何に投じるか?

それはやはり自分で考えるという主体性に他なりません。

様々な媒体はそれを補助するものに過ぎない、その最たるものにアートという世界があるように思えます。

観ることは、主体性の発見なのです。

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