自分の感覚を信じきること、その葛藤をアートに観る

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自分の感覚を信じきること

難しいもので、僕たちは自分を裏切り続けている。

美術館などで実物アートと対面するとき、そのことを強く思う。

アートの精神的価値

「アートの価値は本人が死んでからしかわからない」と、村上隆さんは言っていた。

しばしそれについて考えを巡らせてみる。

作品というのは、それぞれが独立して完成されたものではない。

作者の精神性というものは、見えない糸のようなもので連続的に結ばれているならば

その糸を辿っていくことで完成するといってもいい。

むしろ、そこに人生をかけて表現するものがあるワケだ。

ゴッホのうねりも、ドガの求めた少女も、ルソーの変わらない絵力も、

自分の感覚を探って信じたもの、もしくは信じるために葛藤したこと・立ち向かったことの軌跡、

それをカタチどったものがアートそのもの。

無意識にも胸打つナニカがそこにあるから、立ち止まってしまうのだ。

そのナニカが自分にとっての何であるのか!?

そこを見つめることにアートの精神的価値がある。

村上春樹さん風に言ってみれば、薄暗い井戸の深くに降りていくことだ。

ただひたすらの孤独と向かい合うこと、アーティストがやったように。

ただ、この孤独はひとりではないということが救いである。

自分の感覚を信じきること、

この壮大なテーマに向かっての追体験である。

つまり、同行二人であることが後押しする勇気だ。

自分の感覚を信じきること

混沌、自分の感覚を信じきることは難しい

僕たちは自分を裏切り続けている。

たとえば、

人を好きになって、付き合うことになる。

時間が経つにつれて、些細なことでのケンカが増えて別れてしまう。

現代の感覚だと、人はそれぞれ価値観が違うから仕方ないよねで片付けられる当たり前の話

けれども、

そうそうカンタンな話ではないんじゃないかと思っている。

その別れは、「自分」というモノとの別れにもなってやいないか!?

ということだ。

人を好きになるというのは、自分が思っているよりも深く感覚的なナニカが動いた結果なんだと思うからだ。

価値観が合わなきくなったわけではなくて、

そもそも「自分」というモノに目を向けていたかい!?

自己愛について真剣に考えていたのかという、ギクっとする話に繋がる。

アーティストの作風が変わるとき、そこに影響しているものが「愛」であることがわかる。

不倫やドロドロした恋愛をしていた人も、ヘンタイ的一途も、

ナニカを追って葛藤に生きたということだろう。

「自分」という人間を自分が受け入れることで始まるのだ。

自分の感覚を信じきること、

心の奥底ではそのナニカをわかっているはずなのだ。

けれども、

言葉では到底理解に至らないし、裏切りの連続に悩み苦しむ方が多いに決まってる。

そういう意味では、死ぬときにようやく受け入れられるモノなのかもしれない。

以上、SHOCKMAN

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