余白|日本文化を職人目線で観る

thinking

日本というものを考える上で、重要なワードの一つ。

余白というものが何を表現しているのか、

端的に言えば、儚さの永遠性ではないかと思う。

一見矛盾しているかのように思えてくるが、この矛盾がとても大事なのである。

昔からクリエイターの表現してきた世界は、無限への憧憬そのものであった。

これをいかに表現するか、そこに余白があったのではないかと考える。

儚さというものは、自力の先

自分のありったけをぶつけてもなお届かない領域への希望であるとみる。

今ほど多様的ではなかった時代のクリエイターは特に孤独だったのではないか。

表現を突き詰めていくに、ますます自分に向き合うことになる中で、

儚さという感覚は強くなっていく。

余裕なんてないのだ。

ホテルに作られた枯山水が枯れていないのは、そこに余裕が見て取れるからだ。

儚さなんかちっともない、そんなところに余白など生まれようもない。

僕にはそういう風に見えてしまう。

伝統文化というものは、ただの形式に従って作られても味気ないく、

それは大量生産のマニュアルと同じようなものでしかない。

余白に想像力を掻き立てられるというが、

これもまた儚さを知らなくては、ちっとも面白くはないと思う。

モノというのは、作り手に同化するように観る。

何を持ってここに余白を設けたか、想像してみる。

そこに自分の余白をオーバーラップさせてみる。

ここに伝統のカタチが現れるのである。

余白というのは、余っているように見えて、ちっとも余っていないのであった。

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