僕たちが当たり前に着ている服を分解すると、それは「布」です。
僕ら専門側から見ると当然のことであるが、一般の人目線から見ると「確かに!」という反応。
つまり、一般的には「布」という単位での認識は薄いということです。
しかしながら、当然のように僕たちは布を身につけています。
ここがとても面白く、服にはあって布にはない意識の差というものに僕は可能性を感じているのであります。
昔は手織りで手縫いで、それぞれのプロセスが身近にあった故に、布は人によって作られる意識が強く存在したものと思います。
産業発展によって、徐々に布というモノ自体が家庭から消えてゆき、既製品を店頭で買うようになります。
そして現在は、パソコンやスマホの画面越しにモノを吟味して買うに至っています。
布と既製品の間が遠のいていくことは同時に、モノへの意識が希薄になっているということです。
意識が薄れていく要因の大部分は、”動き”がなくなっていくことにあるのではないかと考えます。
織る・縫うという動きがなくなり、店頭まで買いに行き触るという動きがなくなる。
それを共有する人もいなくなることで、モノに対する意識が空洞化していくのであります。
最近の繊維・ファッション業界は、サスティナブル一色なところがありますが、エシカルなモノづくりを考える以前に、モノに対する”動き”を今一度考える必要があるのではと思います。
”動き”というものは詰まるところ「考える」ということと同義なのです。
僕たちはじっとして何か考えるというよりも多くを、何か動きながら考えています。
技術発展によって利便性は格段に上がりましたが、身体的動きは逆に減っていること、
これに連動して頭で思考するということも同様に減っていることに気づかなくてはなりません。
大量消費というものが無意識に行われていること、
日常というものがひたすらに消費されて終わっていること、
こういった自覚をするためには、もっと”動き”に対して考察を深めていかなければならないと思うのです。
ヒトにとっての一番身近なモノは、服を構成する布です。
この間にある”動き”を見つめ直すことが、次のフェーズに移行するためには大事なのであります。
それは身体的だけれはなく、精神的”動き”も含まれます。
布というものが自分にとって何かから始まり、それが身体を通しての動き、
考えもせず当たり前に通過していた”モノ”を考えるということです。
僕の創り出す布は単なるモノではなく、僕たちの思考が織り重なっていくことで完成するのです。
ひとりの人間と布
この関係をドラスティックに突き詰めることが今、求められている。
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