伝統を守るとは何か?|モノづくり大国ニッポンは面影を追うのか

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「伝統を守るとは何か?」

僕なりの持論

”伝統”に守るものがあるとすれば、

非合理なところに意固地になり続ける姿勢

ただこれだけだろうと考える。

守るものは、技術ではない。

これだけはハッキリ言える。

技術だと考えることは、モノづくりの停滞に誘うマインドだ。

だがしかし、

産地の作り手側(経営者)すらも、良くわかっていないのが現状

その結果

伝統という肩書きに乗っかって、目先のビジネスだけに走る。

技術は常にあるということを前提として、ないがしろにしてきた。

守るべきものがハッキリしていないから、カッコよくないんだ。

そんなところに、誰が魅力や可能性を感じるのか!?

各産地が陥っている後継者不足、ここに繋がる根幹の話、

「伝統を守るとは何か?」

とても切実な問題だと考える。

伝統には、カタチがある。

新しいモノは、普通の先にある

斬新なものを作りたい、今までにないものを作りたい

こういうことって、新しい発想から着手しなきゃと考えがち

だけれども、当たり前なことを普通にできるというのが大前提だったりする。

こういうことを理解していない人は、理想と現実に疲弊することになる。

僕はテキスタイル職人として、京都北部でモノづくりをしています。

テキスタイル(織物)を作る上で、準備工程や機械整備という地道作業はとても大切なことだけど、

分かっていない人からすると、ただひたすらに面白くない

だけれども、

こういう地味作業を丁寧に掘り下げていくから、見えてくるモノづくりのヒントがある

ここに”今までにはなかったモノ”の出発点があるのだ。

世界にないテキスタイルを作る、それは当たり前を徹底した先にあるのがモノづくり

僕はそう考えている。

地味作業を面白くないと思っている時点で、新しいモノを作るステージに立っていない。

伝統にはカタチがある

この当たり前というのが、伝統でいうところの”型”ではないかと考える。

モノづくりにおいて、この当たり前を同じように続けていくということに難しさがある。

織物で言えば、気候条件や染め方によって糸の状態も違うし、

織機も劣化していく中で、段々調子が狂ってくる、

そこの微妙な変化に対応しながら、安定的なクオリティが保たれていると考えるならば、

モノづくり、その過程がクリエイティブでないはずがない。

微妙な変化に気づくためには、こちら作り手側に波があってはいけないワケだ。

気分によってではなく、当たり前の作業として同じようにやれる、

ここに型の重要性があるのではなかろうか。

合理主義が当たり前の今、型というのは古臭くて退屈なものと考えがち。

だけれどもこれがあることで、微妙な変化を察知することができる

モノづくりはここが大事であるし、

この変化の中に、今までにないものの可能性がある。

伝統を守るとは何か?

そういうことを考えて、

冒頭に書いた「伝統を守るとは何か?」

それの僕なりの答えは、

非合理なところに意固地になり続ける姿勢

そこだろうと思ったのである。

合理主義ではとりこぼされそうなカタチやアナロジックな作業

そこを丁寧に見つめなくては、モノづくり大国と言われた日本のクオリティは面影となってしまう。

織物業界では今まさに、その局面にきている。

その危機感の無さが、型ではなく伝統そのものを破壊していることに気づかなくてはならない。

かつて小林秀雄は「伝統とは観念的ではなくハッキリとしたカタチがあるのです」と言っているけれど、

僕もそう思う。

なんとなくで「伝統」「技術」と言う人の言葉ほど、カタチのないものはない。

以上、SHOCKMANレポート

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