布と言葉
SHOCKMAN -BASEのモノづくりについて。
真鍮×正絹の異種のリボンを織り上げて、日本という観念をテキスタイル上に表現しています。
僕の制作スタンスは、”1枚の布”にどれだけ思考を交差させられるかです。
一見平面に見える布、物理的にはタテ糸とヨコ糸が織りあっているため立体的です。
僕の作る布は、3次元を超えるところを目指しています。
そのためには、テキスタイル=マテリアルであるという前提を壊す必要があります。
新しいテキスタイルを作ると、必ず「何になるんですか?」と聞かれるように、前提条件というものは無意識に根付いているのです。
長らく、テキスタイル業界は技術・思想を言語化してこなかったように思います。
僕が感銘を受けた本に、テキスタイルデザイナー皆川魔鬼子さんの「TEXTURE」があります。
その中には、色一つ一つに対して世界のテキスタイルを観てきた著者の考察が記されていました。
経験とそれを巡る思考、つまりは、自分の中から生まれる言葉が一つ一つに綴られていたことに、僕は心が震えたのでありました。
今までにない布を創り出す、
その出発点の思いと、創りながら考えること、出来上がったものを見て考えること、
自らの身体と頭を動かしていく創作というプロセスは、意識から無意識、無意識から意識、双方の行き来であります。
認知できるものと認知できないものとの間、そこを巡るということが自己という存在を鍛錬することにとって大事だと僕は考えています。
巡るということは自分の言葉で知る、つまり自分なりに言語化することです。
故に、僕の創り出す布は物理的な糸の交差だけに留まらず、思考の交差ということを目指しています。
その全てがオーバーラップして一体となること、
その世界を求めて、1枚の布に向き合うことを常としています。
主体性を取り戻す
「textile=materialという前提」は、作り手サイドの主体性の喪失に繋がっています。
要求されたものを作る、これが合理化されていくと単なる一方通行になります。(量産的思考)
一見効率は上がっているように見えるけれども、根本的なテキスタイルの進化という点では鈍化し、
長期的には廃れていくことになります。
現に産地の現状はまさにそのような状況で貧窮しています。
新しいモノづくりが生じるためには、要求してくるものに対してYESかNOの反応ではなく、
さらに深掘りして、何を求めているのかのデザイナーとの本質的対話が必要なのであります。
これは多分にコストを払うもので、これまでの大量生産大量消費社会においては避けられてきた摩擦でありますが、
これからのサスティナブル社会においては、むしろ大事になってくるのであります。
そのためには、失われた主体性というものを作り手(職人)が取り戻していくことが求められています。
僕はそういう想いもあり、SHOCKMANという次世代型の職人を定義しました。(詳しくは、こちら)
主体性を取り戻すために重要なことは、自分というものを言語化していくことに尽きるように思います。
そのためには、自分の考えを巡って頭を整理して少しずつ吐き出していく、
深いところで自己と向き合うプロセスの中にしか答えはないのです。
昨今の情報取得は、ユーチューブのような動画がメインとなっている層も多くなってきました。
本の要約動画など効率的に知識を得るモノも様々なものがあります。
しかし、動画を見てひとつ賢くなったと思うことは、果たして有意義なことなのだろうか?
動画というものは例えるなら散歩するようなもので、リフレッシュする分には効果があるように思います。
しかし、本のように主体的に情報を得ることで起こる”動き”が欠けているように感じます。
ページをめくる手の動きや、ページをめくる間に起こる精神の動き、
この動きが即ち”自分で考える”ということとなのであります。
逆に言えば、動きというものは考えるための副次的な作用だということです。
マルセル・デュシャンは、「美は動きである」というようなことを言ってましたが、その言葉の真意は作品の手前にある美しさへの気づきなのではないかと思います。
主体性を取り戻すために着目すべきは、”動き”なのです。
そしてそれは、主として意識していないところで動くものではないかと思います。
現代はSNSの発達で、すぐに誰とでも繋がることができます。
ハッシュタグがその役割を円滑にするひとつで、人の周りをぐるぐる動いているのだけれども、
大元の自分の中で起こっている”動き”というものを感じている人はどれだけいるのだろうか?
物(現実)からコンテンツ(バーチャル)へ移行したことで、自分の周りを高速で動き続けることになったが、当の本人は一体何をしているのか?
技術発展と共に人間の生活はより快適になっていくわけですが、それは同時に僕らの”動き”を減らしていくことに気づかなくてはなりません。
既得権益ガチガチのシステムや習慣は早くなくなってほしいものですが、そこには大事な動きも含まれていることを直視すべきだと思うのです。
ポスト資本主義を見据えて、テクノロジーは今後ますます発展していきライフスタイルも多様化していく中で、ここに気づけた人間が豊かになっていく時代なのかもしれません。
かつてモノづくり先進国だった日本は、現場視点で見るとボロボロと崩れています。
見えなくなっている、感じなくなっている根源的な主体性というもの、
周りがどうのこうの関係ない、情報の奥にある自分と出会うこと、それが今求められているです。
Diversity〜滲ム駆けるウ〜
ダイバーシティということが重視されている現代、その言葉が都合よく使われていることに違和感を覚えます。
そもそもこれが謳われるようになった背景には、グローバリズム化やネット社会による価値観の多様化などが挙げられます。
僕にはこれらの解釈が、合理的判断の線上にしかないのではという疑問があります。
この違和感に対する根本的な問いが、今回の制作におけるトリガーです。
多様性を考えるにあたって、まず大事なことは内発的であるということです。
これは、上記述べてきたように主体性があることが前提なのであります。
損得勘定や効率性を考える以前に、「自分がやりたいからやる」という姿勢が根幹であること、これを禅用語では「無功徳」と言います。
着目すべきは合理的な判断の前にある、”心の動き”であると考えます。
その動きが様々に起きてオーバーラップすることで現れる輝きやくすみ、このような瞬間瞬間が非常に美しいのではないかと、僕は想像するのです。
つまるところ、
ダイバーシティという問題は肩書きとかポジションを脱ぎ捨てた、たったひとりの人間に突きつけられた課題です。
それはバーチャルにあるのではなく、
想像力を働かせて考えに考え抜いていく現実の主体性によって駆動します。
制作テキスタイルについて
基本構造
今回制作したテキスタイル
タテ糸のベースは、シルクリボン、ヨコ糸のベースは真鍮リボンを用いています。
無機質な金属としての真鍮と、有機質なシルクの素材の対比、
この無と有の間にあるゆらぎを表現するために、異種の組み合わせを使用しています。
4mm幅のリボン自体も織って作っていて、真鍮リボンに関しては独自開発によって作り上げました。
(リボン制作について、こちらのページに詳しく書いています。)
テクニックのひとつは、そのリボンをタテヨコよれずに織ることです。
特に真鍮は撚りクセが強く潰れるとクシャッと汚くなってしまうことから、扱いがかなり難しいものです。
今回開発した手法は、革新的であります。
リボンをタテヨコに使って織り上げた生のテキスタイル、
(機械で織りますが半分手仕事が入るため、「半機半手」という特殊なスタイルでの制作となります。)
その内真鍮リボンをサビさせることで出た緑青をシルクリボンに滲ませる。
つまり、「先染め」と呼ばれる糸を染めて織るものではなく、また、「後染め」と呼ばれる織り上げたのち染めるものにも属しません。
「織り」と「染め」が根本的に同居しているという意味において、既存のテキスタイルの概念を超えて新しい価値を創出しています。
構成とデザイン
柄は、人の意識というものを表すパターンです。
ストーリー理解のように、人は区切られた世界でしか認識することができません。
故に、どこかのパターンに属するわけですが、それをメタ視点で捉えることが重要であると考えます。
知っていることだけしか認知できない世界から、どうやったら抜け出せるのか?
そこに必要とされるのは、偶然性(無意識)であると考えます。
資本主義の元に合理性が優勢にある現代では、意識から無意識へ働きかけようと試みますが、これが抜け出せない最大の要因であると考えます。
これからの社会でより考えていくべきは、無意識から意識を引き上げること。
僕はそれを、真鍮リボンから出るサビ(緑青)に見立てています。
タテ糸に使っているシルクリボンは、他者を意味します。
認識している世界と他者の世界、人は様々に交差する中に複雑に存在するもの、そこにサビが出てシルクリボンに滲んでゆく。
(リボンの作り出す小さな平面性についても考察してます。こちら。)
作品の奥
布上に現れた世界は、各々にとっての事象です。
無意識が意識に働きかけることを、圧倒的に想像することでひとつになるのです。
それはかつての日本人が水墨画の世界に見出した精神性を、無作為な”動き”によって発見したように、
滲みは無意識と意識の間にある領域なのであります。
その発見は、絵画において重要な要素である色彩を無くしたことにありました。
(詳しくは、こちらのブログへ)
これが意味することは、意識というものを引くということです。
これは昔から日本が得意としてきた方法でもあるように思います。
意識というものが網膜に張り付くということで、見え方を極端に狭めてしまっていることに気づいたのであります。
特に色んなモノに付随する情報を無意識にも摂取している我々にとって、いかにこれを剥がすことが求められているか。
リボンテキスタイルと滲みはそれを象徴するような構造になっています。
緻密に積み上げられた意識の塊でもある布上に、無意識に広がっていくサビを展開します。
そこに現れるモノを観ることで、意識をひとつ外側へズラす。
ふと見た時の”動き”を感じてほしいと思っています。
最後に言っておくと、
こういう想いを想定して作り上げたわけではありません。
制作段階では、ただ面白いと思う方に夢中に転がり続けるのみ。
出来上がったものを見て、思考を巡らせたということです。
大事なことは、自分を尽くすということであります。
SHOCKMAN-BASE