「なぜ人は美術館で黙るのか?」
そもそも
「なぜ芸術よくわからない人までが美術館に並ぶのか?」
なぜの裏には、
人間の本質があるのだと考察するブログです。
疑問持った方は、ぜひ観てください。
言葉は目の邪魔になる
野原を歩いて一輪の美しい花が咲いていたとする。
それを見て、「なんだ、スミレの花か」と思った瞬間に、花の形も色も見るのをやめてしまう。
それほど、黙ってモノを見るのは難しい。
小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか? 適菜 収
小林秀雄曰く、言葉は目の邪魔になる
ズキっとくる言葉だ。
美術館に行けば、本と同様に”はじめにの文”から始まる。
それぞれの絵には、名前だけではなく解説が書いてあったりする。
おまけに入り口には、解説をしてくれるデバイスを貸し出している。
絵を見に来ているのだけれども、結構な言葉に囲まれていることに気づきます。
知識や、言葉などの、いつでも剥がせそうなラベルを見て芸術をわかったような気になってやいないか!?
そもそも、絵と向き合っているのか!?
考えてみると、様々な疑問が交錯してきます。
だけれども、
僕は思います。誰しも見ているし、向き合っている。
芸術知らなくても美術館には行きたくなる
良くゴッホだ、モネだ、有名な画家の展覧会があると、
美術館前に長蛇の列ができる。
知ってようが知らまいが、見たくなる。
有名だから見たいというよりも、衝動が勝つんだろうと思うのです。
そして、訳もわからぬものを観て、人は黙る。
理解し難いものを見ると、時間が止まったような気分になることがあります。
僕はここに、無意識的な働きかけがあるのではないかと考えています。
小林秀雄曰く、
優れた芸術作品が表現する「言葉では言い難いもの」は、
その作品固有の様式と切り離すことはできない。
絵というのは、言葉では表現できないことを示しているからこそ、
解説など言葉によってカテゴリーを作った目で観ても、本質的なものは捉えられないんじゃないか!?
芸術を返して自己を観る
大事なのは、無意識的に観ているという事実を認識するところからだと思います。
言葉で到底理解できなそうなことを返して、
「自分の中に何が残ったのか?」
もしくは、「何があることに気づいたのか?」
ここを丁寧に掘り下げていくことが何よりも大事なような気がします。
資本主義の世界にいると、こういった周りくどい非合理的なことがどんどん見えなくなってきます。
でも、どんなに欲求を満たして行っても豊かさが見えてこない。
そういったモノに対する衝動の現れが、美術館の行列じゃないかと思ったりします。
合理主義におけるコスパ優先
僕も大好きな言葉なんだけれども、
それだけやっていては、心がカチカチのドーナッツになってまう。
たまには、芸術と向き合って、
自分の無意識の中にあったもの引っ張り上げるような作業が必要なんではなかろうか。
知識に邪魔されない芸術の見方
僕の美術館の巡り方を紹介します。
変だと言われていたのだけれど、今考えると割と理にかなっていた気がする。
巡り方は本と同じ感じ
1巡目)パラパラ見
入り口から出口まで、誰よりも早く歩きつつパーッと流し目で作品を見ていく。
感覚で観る、そんな感じ
とにかく足を止めずに、駆け抜けます。
2巡目)かいつま見
パーっと観ていても、「なんか良いな」という違和感ある作品が大体あります。
そこに戻って、ジーっと見てみる。
近くから遠くから、いろんな物理的角度から観てみる。
この作品の何に惹かれたんだろう?と考えながら。
3巡目)飛ばし見
もう一度入り口に戻って、導入文を読みながらザックリ観てみる。
各セクションの関連性なんかも意識していくと、この展示会の流れも見えて面白い発見があったりする。
あとは、好きなだけ行ったり来たりです。
本も3度読み返せ!なんて言われたりしますけど、
自分の受け止め方を発見することが一番の目的のように思います。
美術館の巡り方のポイントは、とにかくウロウロする!
僕はこれが結構大事なんではないかと思っていて、
身体全身使って、考える!わけです
こういう無駄な動きが、良いんですよねえ
合理主義な今だからこそ、なお良い気がしています。
補足:アイデア本は、小林秀雄の警告
今回、芸術をあれこれ思考するきっかけになった本の紹介をしときます。
適菜 収さんの「小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?」
今考えることが、随所に詰まっています。
小林秀雄をはじめ、様々な哲学者の言葉をそのまま載せてあるので、
解釈ない部分・作者の解釈、きっぱり分かれていて良い効果をもたらしていると思いました。
読みやすいけど、立ち止まって考えてしまうような本
興味ある方はぜひ、読んでみてください。
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