【坐禅・瞑想、何が違うのか?】目的とやり方からの考察

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こんにちは、SHOCKMANです。

誰しも坐禅・瞑想と聞くと、あんな感じかなぁぐらいのイメージはつくかと思います。

座って呼吸を意識して・・・みたいな

「言い方の違いだろ!」と思ってる方も多いのではないかと思いますが、

実は、違うですよ!

今回は、坐禅と瞑想の違いについてわかりやすく解説していきます。

坐禅と瞑想の目的の違いについて

達磨大師のイラスト

坐禅とは・・・

「思考」をとにかく相手にしない。

出てくる思いに対して、ことごとく考えないことを修行すること

ただただ、”今のあり様”をそのまま感じるという

わかった様なわからないようなことなんですね。

例えば坐禅中に雑音が聞こえきて、「あれ、なんの音だろう?」と思うのが思考

聞かないようにするのも思考

坐禅の修行は、雑音が聞こえたら”雑音が聞こえた状態”があるだけなんですね。

それがつまるところ

仏教でいうところの「悟り」の境地です。

よく聞く言葉だけど、一体なんなのか?

いくら考えても、わからないということが当たり前なんです。

人間が無意識に行なっている思考の先を求めることだからです。

人間の状態では、達せない

だけれど、悟りというのもは常にここにあるものでもあるのです。

瞑想のイラスト

瞑想とは・・・

止観

自我の視点を止めて、客観的に観ること

心の動きを客観的に観察して、一定にしていくのです。

瞑想で大事になってくるキーワードは、”気づき”です。

抽象度を上げていくことで体感する、

すべては無常であり、無我であり、苦しみである」ということへの気づきというものが

瞑想そのものだということです。

一心だということを認識するから、不乱が存在することになるのですよ。

「え?なにそれ」

と思う方多いハズ、(僕もそう)

でも、これもまた僕らが考えうる様な言葉での理解は必要としていないのですよ。

つまり

坐禅と瞑想のハッキリとした違いは、”目的”の有無です。

坐禅は、目的ということも考えない。今のあり様を感じることがすべてです。

今のあり様を感じる目的が目的でもないのです。

思考が入る時点で違う、というのがややこしいんですけど。

瞑想は、客観的に自分を観る、というのが目的です。

それを言葉ではなくもっと抽象的な情報空間での理解を促すものです。

難しい・・・

と思った人は、頭でっかち

どちらも、実践を通して自ら体感すること、それ以外に意味はないのです

坐禅と瞑想のやり方の違いについて

大きな違いがあります。

坐禅は、半眼

瞑想は、閉眼

坐禅はどこまでも、今を感じる修行

目を開けたまま、ただそこにあるということを続けるものです。

逆に瞑想は、抽象度を上げていくイメージを持つために目を閉じます。

瞑想状態に入ると、非常にリラックスした脳波であるアルファー波〜シータ波あたりが発生します。

ただ、目を開けたままこの辺りに行くのは至難で、相当な修行の果てに行き着く境地でもあります。

坐禅は修行なので、基本的な所作は決まっています。

瞑想は、様々なアプローチがあるので、自分に合ったものが見つけやすそうです。

まとめ|坐禅と瞑想の違い

坐禅とは

「思考」を相手にしない。

出てくることに対して、ことごとく考えないことを修行する

半眼で行う

瞑想とは

止観

自我の視点をやめて、客観的に観ること

閉眼で行う

もしこの違いを知って、これから始めようという方

今一度この言葉を考えてから、手放してスタートです。

最後に

悟りに対する答えでなるほどなぁ!と納得した本をオススメしときます。

悟ったらどうなったか、特別な人になったか。

そんなことはない。

従来信じていたことを、信じなくてよくなったということですよ。

真実、悟り、禅修行とは 井上貫道

「ああしなきゃ、こうしなきゃ」

そんなもんはありません。

自らやってみること、これがすべてだと思います。

以上、SHOCKMANレポート

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